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≪第三回≫「求子祈願」について

◎求子祈願

 昔は女の人にとっては悲しい時代がありました。鎌倉時代以後、武家の棟梁が現れてからというものは、それまでは女が主であり、男は従の立場が逆になり、「子なきは去る」という家族制度が生まれたのであります。いくら夫婦仲がよいとはいえ、三年立っても子供が授からねば、嫁ぎ先より身一つで追い出されますので、女の人が子供を授かりたいと願う心にはひとしおのものがあります。

 古くは「三代實録」(貞観十八年(876))の條に「美濃国児安神」と書かれたものがありますが、「延喜式」に見当たらない神ですから、おそらくは民族神でありましょう。

 東国地方においては、年に十二人もの子供を生むという「山の神」を子安神として祈るものもあれば、関西地方では水分(みくまり)の神から「御子守(みこもりのかみ)」と転訛した子守神に願いを掛ける人もたくさんいました。

 仏教の影響を受けるようになった鎌倉時代以降になると、子安地蔵を本地とした「子安物語」が庶民の口から口へと傳えられ、いつしか東国地方の人は子安地蔵、関西地方の人々は子安観音を路傍の祠に祀ったのであります。

 それが遠国地方の素朴な人に未だに 行われている「十九夜講」とよばれる、毎月19日の子安講で子安地蔵や、子安観音の前に筵をひき、飲食を共にし、安産を祈るようになったのであります。

 道教における「咒禁道」をいち早く取り入れた「修験道」においては、「求子符」を作成していますが、醍醐寺の理源大師(当山派修験開祖832〜909)は、これに真言密教に基く書式と、悉曇によりあらたなる「求子符」が作られ、人々の求めに応じ、加持祈祷を行ったのであります。

 日蓮宗では、五百人もの子宝に恵まれた鬼子母神にあやかる加持祈祷を行っていますが、密教系の寺院においては、愛欲をつかさどる佛である「愛染明王」に祈願するのが習わしでありました。

◎安産祈願

 人があらたなる生命を宿すことは、その子の出発点でもありますから、その子のために、懐妊中は身を慎み、ひたすら安産であることを願うのでありますから、通過儀礼の最初は「岩田帯神事」となります。

 昔は、妊婦が三、四ケ月になると実家に戻り、5ケ月を迎えると帯祝い・着帯祝いを行い、出産を待つというのが当時の風習でありました。和訓栞(わくんのしおり=江戸後期の国語辞書)では齊肌(ゆはだ)とあり、貞丈雑記(ていじょうざっき=江戸時代の有職故実書)では結肌帯(ゆはたおび)とありますが、平安時代から行われています。

「ゆはたおび」は母子の安全だけではなく、古来妊娠の忌みに入る日に、無事出産するその日まで、生活のすべてにわたり慎みの覚悟を表すために、肌に堅く巻き付ける「結肌帯」の神事より、「ゆはた」が、「いわた」に転訛したものであります。

 着帯については平安末期の公卿、中山忠親の日記「山槐記(さんかいき)」によりますと、治承二年六月二八日の條に、下着である小袖の左袖より入れて後ろから引き回し、蝶々結びにしたことが記されています。明治に文部書が作成した「古事類苑(こじるいえん)」の「伊勢家秘書誕生の記」によりますと、妊婦の右袖より通し後ろ様に廻し、左脇の下より前え(へ)回すとありますが、伊勢家傳書によりますと、

 「齋肌帯(ゆはだおび)」は、必ず晒し木綿を用い、その長さ8尺とし、両方の耳を中に折り合わせ四つ折りとしたものを、長き方をさらに二つ折にして手筥の蓋に載せて、両親若しくは子沢山の夫婦において、婦が先になり夫が従うのを定めとしています。さらに妊婦に向かって夫は右側に、婦は左側に座するのが禮式とされています。着帯は妊婦に向かい 右脇下から帯を通し後ろ側に廻し、さらに左脇下より前側に廻し胸先で一結びを行い、その上を片輪結びにして輪の方を左にする、とあります。

 

 今日では晒し木綿七尺五寸三分(目出度き吉数七五三にちなむ)に截ち、端に 紅で「壽」の文字を書いたものを半分におり半幅帯びにし、折り目を下にして先ず腹部の中央に「壽」の文字をあてて一巻きし、文字の上に戻ると折り返しを作り巻き上げ、この要領で三回巻き後ろ側で止めています。

 巻く日は、昔は戌の日と限らず吉日を選び行われていましたが、近年では産の軽い犬にちなんで戌の日を選び、恵方に向かい子宝に恵まれた幸福な夫婦が帯親となり、岩田帯を巻き付けてから両方の両親が揃い、祝い膳に着き安産を祈願したのでありますが、この日には赤飯に胡麻塩か、餅に黄粉を添えて近所にも配っています。このときの外包みは奉書紙で圖のように折りあげています。

 岩田帯は安産の神を祀る神社とか、子宝に恵まれた懇意な間柄の夫婦から贈られるのが、古来からの習わしでもありました。岩田帯の正式な形は、当日だけ巻く紅白の絹地二筋に日常用の白木綿一筋をつけ、合わせ三筋を重ねて大奉書紙・大杉原紙で圖のように包みます。 

◎産湯加持

 昔は九カ月目に入った最初の朝一番、鶏が鳴くと、夫婦は杯を交わしてから、妊婦は産屋に入ったのであります。産屋には必ず産棚が設けられて、瓶子一対、三つ土器、始饗に必要なものが置かれていました。月日が満ちて産気づくと、白装束で洗米を備えてから産湯を用意させます。胎児は母胎の羊水内で皮膚に胎脂が付着していますし、出産の過程で血液などが付着しますので、洗い落とすために行います。

産婆が最初に沐浴させる湯を正しくは「産湯」といいますが、室町時代は、出産後三日目になると、それまで立ち会って下されたお産の神様がお発ちになるとして「かみたちの儀」がおこなわれていましたので、三日目のお湯を「ゆぞめ」として区別しています。

◎襁褓(むつき)祝い

 生まれたばかりの新生児に、嫁の里方から初めて着せる衣服である産衣を贈る習わしがあります。古くは、何度も腹に巻いた岩田帯は、初めて身につける衣としては柔らかく新生児の肌を痛めないとして、睦着(むつき)から転じて襁褓(むつき)の文字生まれたると口伝にあります。

 古来より新生児は育ちにくいとされ、腫れ物に触るように扱われ、生後三日目ぐらいまでは岩田帯や、祖母が何度も着たことのある肌着の縫い直しなどを着せるのが普通で、これを「ぼぼさつつみ」、「まえかけづつみ」といい、三日目に着せる初めて袖のついた着物を着せますが、これを「産着」といいますが、今でも山間僻地においては生まれた子が早く手を通すようにとの願いをこめて「てとおし」「てぬき」ともいい、 さらには生後三日目の朝を迎えるのが待ち遠しいとして、「三つ目着物」ともよんでいます。

 産着は、古式によりますと両面白練り、又は綾羽二重で長さ二尺をもととします。付け紐も両面白いものを用います。紋所は家紋の側に松竹梅鶴亀を書き添えて冬は 綿入れ、夏は袷仕立にします。古来より育ちにくい嬰児(みどりご)のために魔よけとして五色の白絹糸二筋で背筋に十二針「背もり縫い)」をしますが、正式の場合、男子は十二針目を男子は大針目を裏にし、小針目を表に縫います。女子は反対にします。何れも糸の余りは二寸八分にします。袖下は、両方とも白糸二筋で綴じておきます。

 現代では身丈二尺8寸か、3尺ものを用い、身頃は一幅、袖は半幅にされています。さらに江戸時代から、新生児が麻のように丈夫でまっすぐ成長するようにとの願いをこめて麻の葉模様の産着を用いるところもあり、これに合わせ大高檀紙・大奉書紙・大杉原紙などを正方形に截ち、産着に合わせての産着包みも行なわれています。

◎御七夜と 命名式

 人間における通過儀礼のうち出産は、母子ともに通過せねばならぬ大きな危機として、古来より重視されています。出産は一身一家だけではなく、村全体の関心毎でもありました。妊婦は帯祝いより忌みの生活に入り、昔は煮炊きの火も別火としてさけて、ひたすら身を慎み、産神の加護よって無事に出産することを願ったのであります。

 山より生を受けたとする古来よりの考えにより、産神は山神が多いですが、所により、あの世とこの世の境を守るとされている便所の神の場合もあります。出産が無事終わると産婦と新生児の命を守り下された感謝の意味から、すぐに三方に米と熨斗、又は鰹節等を産婦の前に供え、その後産婆に下げ渡しますが、その間に産飯を炊いて茶碗に山盛りして産神(うぶがみ)に供えた後に、新生児と産婦の分もともに献じ、産婆や手伝いの人々に産飯を振る舞いますが、出産後此のように産飯を炊いて産神に供え、新生児と膳を一つにするのは、帯祝いの日より・・

 「生世(うぶせ)」に来臨し、生児の肉体を育み靈魂を固定する大役を果たし、産後三日、或いは七日目にお帰りになられるので、その感謝の意味があります。さらに所によっては、盛り上げた飯に強く二つの窪みを押し付けた「靨飯(えくぼめし) 」を供え、頸の骨が早く座るように祈願したのであります。

 生後三日目の夜を迎えると、産神(うぶがみ)・荒神(あらがみ)・地神(ぢがみ)にそれぞれ餅を供え母子の健康を祈り、さらに七夜を迎えますと産着を男子は左手より、女子は右手より通させ、帯(おび)は結ばず打ちかけて、初めて産屋の外に出ます。祝いの間には床に蓬莱台・銚子・瓶子・三つ土器・三方・初饗が用意されていますが、此の日は、新たに誕生した嬰児に名前を付け、産土神の神前に報告する日でもありますので、披露目を兼ねて振る舞の出産祝いを行っています。

 

 命名には二通りあります。

  一つは名付け親が奉書紙に子供の名前を書き、上包みして出世魚や鰹節を添えて送る方法です。

 今一つは、依頼を受けた神社・寺院において、予め希望の字、嫌いな文字を聴いた上で、書きやすく読み易い名前を十種程選び、両親に選らばせるか、御籖(みくじ)方式で決定します。

 此のときに用いる命名書も、普通の場合は「図のように奉書紙を横に二つ折りし、縦に三つ折りにしますが、必ず左端は若干空けておき、第一折りは真ん中に大きく命名と書き、第二折りは右端に父の名前と続き柄、真ん中に大きく新生児の名前、左側に生年月日を書き、第三折りに命名式の日時を右側、少し左寄りに両親の名前を書きます。

 神社・寺院の場合は四つ折りにします。第一折りに○年○月○日○時出生、第二折りに命名、第三折りに右命名する年月日○○神社宮司氏名、又は寺院僧侶氏名、第四折りに両親氏名殿いずれの場合でも、奉書紙で折り上包みします。

 なお此の日に用いる熨斗付祝儀包みは図のように各種あります。

 

 新しく生命をえた嬰児は、古くは神よりの授かり物と考えられていましたから、神への感謝の気持ちから人々は祝い事をしたり、神事を行っていましたから、当然民間信仰の色が濃く地方によって仕方が異なりますから、その土地の風習はよく勉強しておく必要があります。我が郷土、讃岐においては妊娠五ケ月ノ戌の日を選び、トリアゲバアサン(産婆)が帯祝いを行い、この日は紅白一丈の晒し木綿と、赤飯と小豆三粒入った餅が届けられます。餅は帯祝いの餅として近所へ配られていました。

 さらに産を軽くするために、讃岐の田村神社近くの人は、素婆倶羅(そばくら)さんに詣って産の守り札をいただいたり、大きな腹をしたまま近くにある小さな鳥居さんをくぐったり、或いは節分の豆を二つに割り、一方に「い」、他方に「せ」とかいたものを飲ませたりしています。

 讃岐の場合産小屋はありませんが、家の中に産室が作られています。「おくのま」あるいは「なんど」と呼ばれ、ふだんはムシロ敷きか藁敷きですが、めくると竹の簀の子があって、お産の間は竹座にします。此の部屋に入るのは、部屋の方位と誕生日を十二支より意味付けていますが、日柄を選んで入室し、分娩後、忌みが明けるまで別火生活を送ります。

 出産が近づくと、古来より産の軽いことを願い、山神さんか産靈神社に本人か、身内の者がお宮参りをして床下や、縁の下に収められている小石の一つを戴いてお守りとします。安産の後は、赤子の名前と生年月日を書いて同じような 小石を添え、二個にしてお返しするのが習わしであります。

 赤ん坊が無事に生まれると、すぐに「うぶごはん」が炊かれます。うぶごはんの膳には白い米の飯にお頭(かしら)つきにちなんで「いりこ」を小皿にのせたものです。さらにもう一つの小皿には、堅くて丈夫な歯が生えるようにとの願いをこめて、小石を一つのせています。産婆は赤ん坊を抱いてお膳の前にすわり、産の神に感謝の意を述べ、可愛いえくぼが出来るように赤ん坊の両頬を軽く押す祝い膳の儀式をおこないます。

 お産のすべてを取り仕切っている助産婦は、出産後毎日、赤ん坊の産湯に通うとともに、母子の健康管理や育児の助言を行い、八日目は産湯倒しといい赤ん坊の洗い上げを行い、産婦は初めて腰湯を使っている間に、お産場所の床を平常の畳み床に戻す床上げを行い、納戸を出て食事を致します。

 生後8日目を迎えると「たちいわい」といい、神棚に御神酒がお供えし、ご先祖様に赤飯を炊いて祝いの膳を拵え、出産にあたってお世話になった助産婦さんや親戚・どうぎょう(ムラウチの人)・出産祝いを戴いた方々を招待します。産婆さんが赤ん坊を抱き抱え上座に座ると、その家の老女が挨拶し赤ん坊の名前を発表、赤ん坊の口に一箸ずつ食べさせるまねごとをすると、招かれた客は祝いの言葉を述べるのであります。祝いの膳は赤ん坊にも同じような膳部を整えますが、赤飯とばらずし、団子と吸い物が必ず出されます。後は酒が出て宴となります。

 

 名前を決める方法は、家の長老たちと親が三つか、四つ予め考えたものを小紙片に書いて盆などに載せて、床の間などにおいて神事を行い、その後笹の葉もしくは神札などて吊り上げて決めています。祝いの膳が終わると、披露の命名札をつけて祝い餅を配るのが習わしであります。

 讃岐では男の子は出産後二十日目、女の子は三十日目を「いみあけ」といい、この日は三つ紋の着物か、振り袖の晴れ着を着飾り宮参りを行い、氏子札を受け氏子帳に書き加えて貰い、氏子の一人となってその守護を受け、まめに暮らせるようにと祈願する大切な儀式をおこなっています。

 生後100日目になると親の里から食器や、お膳が贈られてきますから、これを用いてお膳を整えます。赤飯にばらずし、尾頭(おがしら)付きは必須ですが、普賢者(ぶげんしゃ)の家では一の膳に赤飯・海老団子、三つ葉,ユズの吸い物・日の出カマボコ、きんとん、だてまきの三つ揃い、二の膳には鯛の塩焼きと添え物ですが。嬰児の膳には懐紙にのせた歯固め石が載せられていて、飯粒一粒を口に着け魚をたべさせるお食(く)い初(ぞ)めの儀式を行っています。

 このように他の地方とは異なった儀式が多いですが、いずれも古くから行われている民俗信仰が基盤となっていますし、いまだに根強く守られていますので、これらの儀式を無視して神事を行うことは避けるべきだと思います。

◎宮参り

 産の忌みは、東日本では「さんび」、中国・四国では「あかび」、日本全土ではふつう赤不浄、沖縄では白不浄といい、死の忌みよりも重いとされ、産婦と火・水を同じにするのを避けるために別棟の産小屋を設けたり、一つ家の棟に住むときは定められた部屋以外は自由に往来することが出来ないだけでなく、七日、所によっては十一日の「ひあがり」「へやあがり」までは、産婦が火の側や井戸端に立ち寄ることで出来ません出した。今でもお産のあった家では、三日から七日くらいは仕事を休むところが多いのです。

 二十日目・三十二日目・七五日目、所によりそれぞれ忌みの期間が異なりますが、その最後の日を「おびあげ」といい、この日を過ぎると外出や神詣が自由に出来るのでありますが、普通 産婦は三七夜の二十一目に枕直しを行い、床にめでたい掛け物・初饗・瓶子一対を飾り、親類・家内・出入りのものにふるまいをしたのであります。

 さらに所によっては「産婦の色直し」ともいいますが、これは平安時代の公家においては新生児に白装束を着せ、七夜若しくは九夜を過ぎると色物を着せたのが「色直し」という儀式ですが、それが室町時代から産婦が着る白無垢の衣も、忌み明けの後は通常の色物を着ることが出来たので、その日を言うようになったのであります。(伊勢家の教えに色直しの「いろ」なる言葉は白無垢を表し、忌みを表示するものとあります)

 昔は、男子は生まれた日から二十九日目、女子は三十一日目を「ひあけ」「ひばれ」「うぶあけ」「締め上げ」と言い、この日をもって生児の忌みが明けますが、子忌み三十三日、親忌み七十五日と言われていますので、頑なにこれを護り西日本では「ももかまいり」といい、百日目に宮参りをする習わしがありますので、それまでに参る場合は、生後三十日目の場合は鳥居まで参る「鳥居参り」が多く、此の場合は母親の忌みが明けていないので、夫側の祖母が赤ちゃんを抱いて行きます。祖母がいない場合は仲人の女親・産婆が行っていました。

 宮参りは、生児に取っては初めての「産土神(うぶすながみ)参り」なので、所によっては「見参(げんさんぞ)参り」「氏見せ」とも呼ばれていますが、新しく氏子に仲間入りするために氏神に顔見せして、行く末の加護を願い神事を行うのであります。

 古くは、お宮などにおいては御守護守りとともに、産着の紐に嬰児の人生が末広がりになりますようにと縁起物である檜扇を麻苧で取り付けたのであります。

 初宮参りをすませると、近所にお披露目をするために、餅には黄粉、赤飯には胡麻、お塩をつけて配ります。その時のお祝いに、魔徐けとして犬張り子、でんでん太鼓を贈ったのであります。

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