陰陽家。父は大膳太夫益材。賀茂忠行及其子保憲(やすのり)に就て天文の術を習い、進むと従四位下に叙せられた。天文博士、大膳太夫、左京太夫となり播磨守に至る。子孫は天文、暦道、陰陽学を傳う(「世界歴史辞典」;1904、郁文社編纂所編)。
※賀茂保憲は陰陽頭、960年に天文博士となった。977年2月22日没。晴明は1005年没、85歳。土御門(つちみかど)家、安倍氏系図によると初代倉梯麿(左大臣)から晴明は9代目、天才通神奇矢人也、主計権頭、天竿術長と記されている。賀茂保憲は賀茂氏初代吉備麿=吉備真備(天平勝宝4年賀茂朝臣を賜る)から7代目。主計従四位上、陰陽・天文博士と記されている。師弟関係にあった晴明の時より天文、暦法が分化、後奈良天皇天文年中(1532~1554)賀茂家は勘解由小路在富に至って暦博士が断絶したので、晴明17代の孫土御門有脩に詔して暦法天文の二道を兼ねしめた(佐藤政次編著「暦学史大全」)。
安倍晴明は、安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)を初代に、遣唐使(けんとうし)として海を渡った安倍仲麻呂(あべのなかまろ)に連なる家系。安倍文殊院(あべもんじゅいん=奈良県桜井市阿部)のある安倍の里に生まれたといわれています。付近には、仲麻呂と共に唐へ渡った吉備真備(きびのまきび)ゆかりの吉備(きび)寺(現妙法寺)もあります。
吉備家は、後に晴明の陰陽道の師匠となった加茂忠行(かものただゆき)や加茂保憲(かものやすのり)に連なり、両家のつきあいは天文暦道(てんもんれきどう)と陰陽道(おんみょうどう)をとおして後世まで続きますが、加茂家が絶えた後は、安倍晴明の末裔(まつえい)、土御門(つちみかど)家が明治初期まで暦道、陰陽道を一元的に司っていました。
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晴明が白狐から生まれたという伝説は、浄瑠璃「蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)」(竹田出雲作、初演は1734年)の「葛の葉の段」にも語られます。物語では、保名が助けた信太(しのだ)の白狐が「葛(くず)の葉」という美女に姿を変え、やがて結婚して晴明を生んだとされています。
安倍晴明には生誕の場所など多くの謎がありますが、安倍晴明の伝説上の父である保名(やすな)は、安倍一族ゆかりの武士で現在の阿倍野(大阪市)に屋敷を構えました。安倍晴明神社の境内には「晴明公産湯井(うぶゆい)跡」を示す石碑があり、安倍倉梯麻呂が四天王像を寄進したと伝えられる聖徳太子(しょうとくたいし)ゆかりの四天王寺(してんのうじ)にも近いので、晴明の阿倍野生誕説の根拠となっています。
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六甲山系、神戸市旧蘆屋(あしや)村(現東灘区)にある「金鳥山(きんちょうざん)」の山麓には、陰陽道の宿敵、蘆屋道満(あしやどうまん)の墓とされる「狐塚(きつねづか)」があります。安倍晴明と蘆屋道満の妖術(ようじゅつ)比べの舞台になったのが、ここ金鳥山のあたりといわれていますが、「金鳥」あるいは「金鶏」伝承は、「信太の白狐」伝説で知られる泉州・信太山にも存在します。
曰く「黒鳥山に玉塚という濠(ほり)を巡らせた円墳があって、正月の朝、金の鶏が鳴く」。陰陽五行説における「金」、十二支における「酉(とり)」といういずれも「西」を示す方位で解釈すれば、その場所に五行相生(金→水)によって「水」の存在を仮定することができます。陰陽道は、中国の「風水」思想ともつながっているようです。
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明日香(あすか)から難波宮(なにわのみや)への遷都にともない、大和の安倍一族が現在の阿倍野あたりに移り住んだのは確実でしょう。阿倍野付近には「播磨町」という地名もあり、播磨守となった安倍晴明と播磨陰陽師たちの交流もあったのではないでしょうか。
晴明の父、安倍益材(ますき)は宮廷の司厨長ともいえる大膳大夫(だいぜんたいふ)の役職。安倍一族の分寺、安倍寺跡が現在の阿倍野区松崎町にありますが、この地域に有名な辻調理師学校があるのは偶然といえないかもしれません。
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岡山県浅口郡鴨方(かもがた)町「阿部山(あべやま)」には安倍晴明屋敷跡が伝承として残っています。新賀(笠岡市)出身の俳人、在田軒道貞が著した『吉備(きび)物語』には、「金光(こんこう)町占見(うらみ)に住んだ晴明が師を得て勉学に励み、天文学を広め、京都で大成した」とあります。
阿部山を下ったところが金光(こんこう)町ですが、『今昔物語集』には「晴明が陰陽師(おんみょうじ)の加茂忠行のお供で出かけた時、恐ろしい鬼たちが向かってくるのに気づき、術を使って難を逃れた」と記されています。
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吉備(きび=岡山県)や播磨(はりま=兵庫県)は、かつて陰陽師の里として民間信仰の拠点を数多く形成した地域。雲が少なく天文観測に都合のよいことから、国立天文台岡山天体物理観測所(鴨方町、阿部山東側)や西播磨天文台公園(兵庫県佐用郡佐用町)などの施設が点在します。
西播磨天文台の近くには安倍晴明の墓とされる場所もあり、晴明のライバルとして名を遺した民間陰陽師、蘆屋道満の塚が安倍晴明の塚と向き合ってセットされています。