※写真はすべて2010~2015年に撮影されたもので、現況と異なる場合があります。
大阪ミナミの玄関口。JR環状線・阪和線・奈良線、地下鉄御堂筋線・谷町線、近鉄南大阪線、阪堺電車上町線のターミナルとして発展。 地上300mの超高層ビルあべのハルカスと近鉄百貨店、天王寺MIO、アポロ・ルシアスビル、キューズモール、あべのベルタなどの商業施設が集積。付近には有名校も多く、文教地区としても知られています。
(写真)左:阿部野橋、右:阿倍野筋夜景
今では珍しい路面電車が阿倍野筋を走っています。チンチン電車として親しまれている阪堺電車は、阿部野橋と帝塚山、住吉公園、堺の浜寺公園を結ぶ大切な足。昭和初期に製造された車両も現役で活躍、情緒たっぷりです。
あべの筋と松虫通りの交差点からすぐ西側に「松虫塚」が。松虫とは鈴虫のことで、漢名は「金鐘児」。謡曲「野々宮」には「分て我忍ふ松虫の聲(こえ)りんりんとして夜の聲明々たり…」とあり、同「松虫」には「阿倍野の松原で連れが松虫の音を慕い、草むらへ入ったまま帰らないので捜しに行ったところ死んでいた」という話がのこっています。なお、近隣の正圓寺奥の院には戦災で焼けた名物の「松」を祀る社があり、そこにも「松虫塚」の表示が―。
「天下茶屋の聖天さん」として知られる正圓寺は、古義真言宗京都東寺の末院で、天慶2年(939)に光道和尚が現在の松虫交差点あたりに開基した「般若山阿部寺」が初め。上町台地西端の景勝地にあり「大聖歓喜天(聖天)」を祀ることから聖天山とも呼ばれています。
陰陽家、天文博士安倍晴明がご祭神。「晴明宮御社殿書」によると平安時代の寛弘4年(1007)、六十六代一条天皇の創建とされ、境内には安倍晴明の誕生を示す石碑や井戸跡が残っています。現在の社殿は大正14年に復興造営されたもの。
「阿倍王子神社権現縁起」によると仁徳天皇のご創建。往古この地を本拠とした阿倍(阿部、安倍)氏の創建とも言われています。平安時代、熊野詣が盛んになると熊野九十九王子社第二王子社として賑わい、旧地現存の王子社としては大阪府下唯一の貴重な存在。空海直伝の厄除け、病気平癒等に霊験があるとされています。
もともとは北寄り、北畠顕家公の墓所あたりにあったそうで、現在は阪南団地近くの路地裏にあります。播磨守でもあった安倍晴明の本拠地にあるこの塚は、戦死した播磨の武士を弔ったものとされています。なお、播磨塚と同じ場所に小町塚の石碑が併在しています。
北畠親房の長子で南北朝時代の武将、顕家は後醍醐天皇に寵せられ奥羽平定に貢献しています。新田義貞とともに足利氏と戦いましたが敗れ、延元3年(1338)、弱冠21歳で戦死しました。
阿部野神社は明治15年の創建、北畠顕家と北畠親房をご祭神とする元別格官幣社。延元3年(1338)に顕家が足利方に敗れて亡くなったと伝承される地に、明治8年(1875)、地元の有志が顕家を祀る祠を建立したのが最初。現在地(阿倍野区北畠3丁目)の社殿は明治20年(1887)3月に竣工、桜の名所となっています。
天神ノ森天満宮あたりの森林(紹鴎の森)に湧く泉水を愛した室町時代末期の茶匠・武野紹鴎は、若くして京都に出て歌道や茶道を学び、とくに茶道は、「侘び」の境地をもって茶道の理想とする極意を感得したと伝えられています。千利休も紹鴎晩年の門人だったとか―。豊臣秀吉が住吉大社や堺に行く途中、このあたり、紀州街道沿い芽木家の屋敷で茶会を催したという故事にちなんで天下茶屋という名前がつきました。
天神ノ森天満宮は子安天満宮ともいわれ、太閤秀吉も淀君懐妊のおりに安産祈願したと伝えられています。「子安石」といわれる霊石は社殿東側にあります。
(丸山通1丁目)
今では大阪基督教短期大学(きりたん)敷地の一部となった料亭「松虫花壇」には「夫婦善哉」で有名な作家、織田作之助(1913~1947)が学生時代、後に夫人となった宮田一枝と訪れたという記録があります。きりたん北門構内には「織田作之助来遊の地」と書かれた石碑が残っています。
(王子町2丁目)
梶井基次郎(1901~1932)は大阪に生まれ、エンジニアを目指して三高に進んだものの文学に惹かれるようになり東京帝大英文科(のち国史科)に入学。簡潔な描写と詩情豊かな澄明な文体で20篇余りの小品を残しましたが、代表作となった初の作品集『檸檬』刊行の翌年、肺結核のため31歳で早逝。終の棲家となった王子町の一角には「旧居跡」を示す看板が立てられています。
(阪南町1丁目)
童謡「サッちゃん」の作詞者として有名な阪田寛夫(1925~2005)は阿倍野区松崎町に生まれ、帝塚山学院小学校から住吉中、旧制高知高校をへて東京帝大へ進学、卒業後は朝日放送で主にラジオ番組の制作に携わり、その後「音楽入門」で小説家としてデビューしました。 1975年に小説『土の器』で芥川賞を受賞。同じく芥川賞作家の庄野潤三(兄庄野英二は児童文学者・帝塚山学院長)は小中学校の同級生、また朝日放送でも同僚だったとか。作曲家の大中恩は従兄弟。次女は元女優で宝塚歌劇団のトップスター、大浦みずき。日本基督教団南大阪教会附属南大阪幼稚園の一角に「サッちゃん」の歌碑があります。
(松虫通3丁目)
鎌倉末期から南北朝時代にかけての歌人、吉田兼好は1324年(正中元年)比叡山で剃髪、京都吉田山に隠れ住んで後は南北朝の戦乱を避けて弟子の命婦丸の里であった阿倍野丸山に移り住み、自ら藁を打ち莚を織って清貧自適な暮らしを営んでいたとか―。 『兼好法師の藁打石』と伝えられる大石は、現在正圓寺参道の石段のところに建つ「大聖歓喜天」と刻んだ碑の礎石ではないかと言われています。傍らには『法師隠棲庵跡』の碑も。
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