まつむし音楽堂通信

 2017年 おひがん号

 

●日がすこし長くなり、日差しにも春らしさが増してきました。花見が待たれる季節です。花見といえば、童話絵本の「花咲爺さん」を連想するのですが、2025年の開催をめざす「大阪万博」のテーマが「人類の健康・長寿への挑戦」から、より広い内容を包含する「いのちかがやく未来社会のデザイン」となったそうです。

●もしこの万博が実現すれば、日本に続いて近未来に長寿社会を迎えるアジアの国々から、きっと大勢の人々が訪れるにちがいありません。その頃、日本は本格的な高齢社会。日本の津々浦々で長寿社会の実物見本が観察できる、絶好の機会となるからです。

●1970年、高度経済成長期のピークに開催されたかつての「大阪万博」のテーマは「人類の進歩と調和」。人類が月に第一歩を標(しる)した翌年のことですから、「未来」は「夢」にあふれていたのでしょう。若さもありました。カナダ・ケベック館のディスコが、連日若者たちでいっぱいだったのを思い出します。

●「進歩」とか「挑戦」といった言葉には「若さ」が宿っているのでしょうね。いっぽう高齢社会では「夢」とか「希望」とかいった言葉が見当たりません。若いときに老後の安楽を夢見て働き、貯蓄に励んだ人々が定年を迎え、「さあ、お楽しみはこれからだ」と待ち構えた時代もありました。が、いまはどうでしょう-。

●「生、老、病、死」は生物共通の宿命で、生命活動の終着点が「死」となりますが、「生死」を波動的に捉えると、「死」の位相が「生」の位相への出発点で、「死んでいる」期間も「生きている」期間とほぼ同じであるとかんがえられるのです。しかし「あの世」のことは、「あの世」を経験した人にしかわかりません。

●「あの世」いわば「霊界」は、本来は宗教家の領域ともいえるでしょうが、現代の仏教や神道、キリスト教やイスラム教も、これにたいし明快な解説をしているとは思えません。では、ギリシャ時代はどうだったのでしょう。

●古代ギリシャの医聖「ヒポクラテス」(BC460-375)はラテン語で、「Ars longa Vita brevis」(芸術は長く、人生は短い)と言いました。「Ars」は「芸術」と解されますが、当時は汎く「技術」をあらわしていたようです。ヒポクラテスは、自身の経験から、診断、治療の技術を習得するのは難しい、ということを言いたかったのでしょう。つまり「技術」(芸術)は、「医療」の上位概念として存在していたのではないでしょうか。ならば病人や心身ともに苦悩する人々を癒すのは、宗教家でも治療家でもなく、芸術家ではなかったのか、と思い至ります。

●神話に登場する「竪琴」弾き(吟遊詩人)や中世の礼拝を進行する「パイプオルガン」弾きは、今日ではオーケストラの指揮者のような存在といえるでしょうか。人々の日常生活や「生死」に横断的にかかわっていた古今の司祭たち、かれらは紛れもなく、「Ars」を身に着けた芸術家でもあったはずです。

●二月に人生の節目となる大きな衝撃を体験したわたしは、しばらく音楽を聴くことから遠ざかっていたのですが、たまたまレコードプレーヤに乗っている音盤に針を落として、すこし慰められました。その楽曲は「ヴォータンの別れと魔の炎の音楽」(楽劇「ワリキューレ」(ワグナー作曲)より)で、気鋭のオルガニスト、アンソニー・ニューマンの演奏によるもの(CBSソニー、1975)でした。未来を担う若者たちは、どんな職業であれ、小手先の技術を競うだけでなく、精神面でもそれを芸術の域に高めてほしいと願うばかりです。

(和田高幸)

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