●数日前、棚から「貴志康一」がベルリンフィルを指揮した「道頓堀」「市場」のレコードが落ちてきたので聞いてみた。ガーシュインの有名な楽曲「ラプソディー・イン・ブルー」に「市場」(貴志康一作曲)とそっくり同じ旋律が使われていたので驚いたが、「さもありなん」、と納得することにした。
●貴志康一は28歳の若さで死んだが、ガーシュインと同世代。「市場」のレコードは彼も聞いていたにちがいない。貴志康一は当時の大指揮者、「フルトヴェングラー」に学び寵愛を受けた。
●フルトヴェングラーが指揮、数々のコメントを書き込んだ貴重なスコアの束は日本に送られ妹の「山本あや」(生前は阿倍野区の北畠にも住んでおられた)さんが大阪府立図書館に寄贈したが行方不明のままとなっている。それはともかく、指揮者、作曲家、ヴァイオリニストとして「天才」の誉れ高い貴志の功績は、ジャズや民謡、民族音楽を五線譜に著わしたことだ。
●個々の楽曲におけるオーケストレーションの巧みさは、彼が作曲したヴァイオリン協奏曲のスコアをみるまでもなく納得できるはずだ。民謡や民族音楽に西洋音楽としての地位を授け、ロシアや東欧の作曲家たちをも世に出した功績は限りなく大きい。早世とはいえ、もっと認知され称えられて当然だと思うのはわたしだけだろうか。
●時の経過は、さまざまな記憶を洗い流す。しかし、記憶の片鱗でも呼び起こすことが、現実社会の苦悩や不条理に抗い克服する原動力となる可能性もあるだろう。「温故知新」(ふるきをたずねて、あたらしきをしる)なる標語も生きているのだから・・
●アベノのことを書こうと思う。数か月前に千利休と与謝野晶子を顕彰する堺市の「利晶館」へ行ったときのこと、その施設で利休の茶室(侍庵のレプリカ)を見たが、思ったより小さく感じられた。ところで、千利休のお茶の師匠にあたる武野紹鴎(じょうおう)の茶室がアベノにあったことを知る人は少ないと思われる。
上町台地に位置するアベノの地は、どこを掘っても清水が湧くほど水に恵まれている(天王寺区に清水谷などの地名も残っている)が、そのためか有名な「天下茶屋」をはじめ、「お茶屋」が多くあったようだ。「お茶屋」とはいわゆる貸座敷屋のこと。(料理は「仕出し屋」が出前したが、店頭で「茶」を売っていたのでこれが茶屋の語源となった。もちろん邸内でも茶をふるまったようだ)。井戸跡のみで史跡となった「天下茶屋」(芽木家の屋敷跡)に近い「聖天(しょうてん)」の境内に、紹鴎の茶室があったそうだ(住職から聞いた話)。台風で倒壊したというが8畳ほどの広さだったらしい。
●8畳は「茶室」としてはかなり広いが、当時の茶室は寄合い所のようなもので、たぶん(わたしの想像だが)堺から体格のよい宣教師ら西洋人の茶会の場となっていたと思われる。近隣には大阪基督教短大(きりたん)があり、かつては日本庭園もあって宣教師が住んでいたという話もある。堺との行き来は盛んだったにちがいない。なお、宣教師の一人にポルトガル人、「ジョアンナ・ロドリゲス」という名前が見える(利晶館)が、「ジョアンナ」を日本名で「紹鴎」と呼んだ可能性もあり、私見だが、これが「ジョアンナ」ならぬ『紹鴎庵→紹庵(じょうあん)』茶室となったのではないかとも推察される。
●千利休も堺の豪商のひとりであったから「お茶」で一儲けをたくらんだ可能性もあるだろうか。日本独自の「わび」「さび」文化を大成した利休だが、大陸からの舶来品を珍重する風潮が当時の社会に蔓延していたとすれば、不揃い、あるいは「傷もの」(いわゆるB品)を金にかえたいと思ったかもしれない。金儲けの方策として、「いびつの美」が創造されたと考えるのは筆者の不謹慎といわれるにちがいないが・・
利休による「わび」「さび」の発想は、まさに「お茶」による脳力の限界に挑戦している、といえるかもしれない。
●あけおめ。(あけまして、おめでとうございます)。近年「コロナ禍」と「ウクライナ」のニュースが多いのですが、長期化する「ウクライナ戦争」について、ナンバースコープ(数字をもとにした占い)により私見を述べると・・
●ウクライナ戦争は今年中(2023年)に決着すると思われます。「UKRAINE」(7)は孤立しますが、地理上はかつての「カザール帝国」に位置し、ユダヤ教徒(JEW「11」)が多いので独立心がつよい。したがってかつてのように「ソ連邦」(USSR「5」、ロシア語表記はCCCP「7」)あるいは「ロシア連邦」となっても独立性のつよい国家あるいは自治領となる可能性があります。
●きょうはこの辺で。ではまた。